(BGM Imagine by John Lennon ※音量は控えめに!)
本日もお越し頂きありがとうございます
少々重い記事です (釣りは全く出てきません)
毎年この時期になると〝戦争〟を題材にした番組が数々放送される
過去の過ちを繰り返さないように、決して忘れてしまうことのない様に
平和な現代に生きる我々に警鐘を鳴らす意味も込められているのだろう
先日、カーラジオに耳を傾けていると、こんな言葉が流れてきた
「過去の事実が〝史実〟に変わりつつある」
戦争をじかに体験した人々が少なくなり、歴史の一つになりつつあるという意味だ
戦後65年が経過し、当時兵士として戦地に赴いた人が
一人また一人とこの世から居なくなる
時代の流れには逆らえない故に、どうしようもないことではある
だが、歴史上の出来事の一つにしてしまうには、まだ早いような気もする
私の年齢は38歳ということは以前どこかに書いた
私は昭和47年にこの世に生を受けた
戦争が終わったのが昭和20年
それからわずか27年後に生まれたことになる
私が今日まで生きてきた38年間よりも11年も短い年月である
私が生まれた昭和47年からみて
そんな近い過去に戦争があったことになる
私はなぜか、昔から戦争関連の番組を見るのが好きで
毎年のようにそういった番組に目を通す
ここ近年で、番組の内容にも少々変化が見られる
今まで口をつぐんでいた旧日本兵だった人々が
自分が歳をとると共に、今まで明かされなかった事実を語り始めている
戦争という狂気の世界で行われた、日常では考えられないような
惨たらしい殺戮の事実を、涙ながらに語る姿に
今まで誰にも言えず自問自答を繰り返してきた苦悩が見て取れる
この人たちの長い長い苦悩の日々を
我々は無駄にしてはならないと、改めて考えさせられる
そんな想いが、毎年この時期になると私の胸に去来する
また、この時期になると、私は祖父のことを思い出す
私の祖父も戦地に赴いた一人である
幸いにして、生きて日本の地に帰ってくることができたのだが
私は子供の頃、祖父から戦争の話をよく聞かされた
聞かされたというよりも、興味本位に私が聞かせてくれとせがんだ方が正しい
だが、祖父は嫌々語るのではなく、戦争のことを聞きたがる我が孫に対して
喜んで話してくれていたように記憶している
それは、私の父と祖父との間柄にも関係していることでもある
父は昭和16年の9月に生まれた
そのわずか3ヵ月後の昭和16年12月8日
太平洋戦争が始まる
祖父は善通寺を本拠地とする歩兵第55師団の一員として
ビルマ戦線に送り込まれることになる
後に調べてみると、この第55師団はインパール作戦の前哨戦の
アキャブ作戦に参加し、華々しい戦果を挙げているが
第2次アキャブ作戦では全く逆の結果で、散々な敗北を喫している
その後、インパール作戦は大失敗に終わり、撤退に告ぐ撤退を余儀なくされ
撤退の途中、多くの兵が戦火に、飢えに、病に倒れていくことになる
祖父もその凄惨な撤退の現場に居た一人である
祖父は衛生兵として最前線の真っ只中にいた
一般的に、衛生兵は後方に居て負傷した兵の看護に当る
そんなイメージを持つ人が多いかもしれないが
実際は戦闘の真っ只中で負傷者が出る度に、負傷者の元に呼ばれ
その場で応急手当をする
分かりやすく言えば、撃たれたその場に行き止血したりするのだから
まさに銃弾や砲弾が頭の上を飛び交っているド真ん中にいるのである
そして祖父も遂に、銃弾に我が身を傷つけられることになる
祖父の太腿には大きな傷があった、銃創である
撤退のさ中、銃弾に倒れた祖父は、上官から自決用の手榴弾を手渡されたという
「残念だが、貴様をここに置いていく」 そんなことを言われたらしい
だが、そこに運良く通りがかった同郷の兵士が
「この人には大変世話になったから、私が背負ってでも連れて行く!」と言い
命拾いをした
祖父は米穀店を営んでいたが、そこに丁稚奉公に来ていた人が
たまたま通りがかった同郷の兵士である
こうして翌年、祖父は無事に日本に復員することを得た
父はこの時5歳
生まれてこの方、父親の姿を見ずに育ってきた
突然帰ってきた疲労しきった祖父を見て
「このおっちゃん誰?」と言い
自分の父親だと知ってからも、なかなか懐かなかったという
昨年TVドラマにもなった山崎豊子原作の「不毛地帯」の中にも
そんなシーンが出てきたが、
まさに現実のものとして、そんなシーンが展開されたのだ
その後、父の下に二人の弟が生まれたが、
祖父は二人の弟を可愛がったが、なかなか懐こうとしない長男には
他の二人と同じようには愛情を注ぐことをせず
なにかとキツク当ることが多かったという
これは祖母から聞いた話なので、恐らく間違いのないことだろう
そんな微妙な親子関係にはやがて大きな亀裂が生じてきた
父が中学だか高校だかの時、祖母と二人で家を出ようとしたことがあるらしい
その時はどうにか踏みとどまったものの、
親子の間に大きな確執ができてしまった
父に対しては何かと厳しく当る祖父も、私に対しては、どこにでもいる好々爺だった
一緒の布団に潜り込み寝ることを、とても喜んでくれたことを鮮明に覚えている
そんな孫の私が、戦争の話を聞かせてくれというのを、祖父が嫌がるはずもない
戦争の恐ろしさ、戦時中の苦労話などを、幼い私に詳しく、そして優しく教えてくれた
今にして思えば、そんな祖父の姿を父はどういう思いで見ていたのだろうか
もしかしたら、私が祖父にせがんだように、
父は祖父から戦争の話を聞いてみたかったかもしれない
そして祖父が私に注いでくれた愛情を、本来は父が受けるはずだったのだと
最近は、そう思うようになってきた
父はきっと愛情に飢えていたのではないだろうか
手放しで孫を可愛がる姿に、もしかしたら羨ましさすら感じていたかもしれない
父の下の弟二人は、親元を離れ生活をしているが
父は一人地元に残り、自分の両親の面倒を見続けてきた
たとえ馬が合わない親父であっても
今はもう祖父母ともに他界してしまったが
結局、最後まで父は両親の世話をし続けた
そして、最後までわだかまりが解けずじまいだった
祖父が息を引き取る時、父はその場に居合わせることはできなかったが
職場から急いで駆けつけ、祖父の亡き骸に対面し大粒の涙を流した
父が涙を流したのを見るのは、初めてだったと思う
その時の父の表情は、なんとも複雑なもので
きっと、本当は仲直りをしたかったんじゃないか、そんな風に思えた
65年前の戦争が、父と祖父との関係を壊し
一生涯修復することができなかった
そんなことを思うと、戦場で闘った祖父はもちろんのこと
父もまた、戦争の大きな被害を受けた 〝戦争被害者 〟に違いない
祖父が他界した後に、祖父の持ち物を整理していた時
思いがけない物が出てきて、親戚一同が驚いた
戦争に行くときに持っていく(置いていく?)小さな巾着袋が見つかったのだ
その中には、爪、遺髪、そして遺書が入っていた
遺書の中身にはおおよそ次のような事が書かれてあったと思う
(文体は昔の ○○スルベシ みたいなやつ)
私が死んだら、家の事は○○(父)にすべて任せる
母と姉のことを頼む
○○(姉)は勉学に励むこと
辞世の句 (内容は覚えてません)
あの時代の一商家の人間だった祖父が
どこでどう習ったのか、立派な達筆でしたためてあり
その場に居た一同が、祖父を偲び、祖父を誇りに思った
まさか戦争に行くときに書いた遺書が
こんな形で家族の目に触れることになろうとは
祖父も思いもしなかったことだろう